おサルのイタリア漫遊記・2【楽天市場】旅行・出張・ホテル・チケット クラシックは素敵だ!のショッピング おさるファミリーです 今日は、もうすぐイタリアのトリノで冬のオリンピックが始まるし、今年はなんといってもワールドカップはあるし、ということでちょっとまたそのネタで漫遊記を書いてみます。 イタリアが世界有数のサッカー大国なのは皆さんもよくご承知だろう。ワールドカップにはほぼ必ず参加し、毎回優勝候補の一角に名があがる。過去3回の優勝はダテではなく、とにかく国民はサッカー大好き、朝から晩まで寝ても覚めてもとにかくサッカー。日本の相撲などとは比べものにならない、サッカーこそイタリアの国技と言っていいだろう。 おさるも当然ながら毎日、学校から帰ると日が暮れるまで近所の子供達とサッカーばかりしていた。近くの公園にいけば、誰かがサッカーをしていて、知らない連中でもすぐに仲間に入れてくれた。皆試合がやりたいから、メンバーになりそうなやつはイタリア人だろうがおさるだろうが関係なかったのだ。ほんとにおおらかな時代だった。 あれは確か小学校3年の時、1970年メキシコ大会が開催された。当時まだモノクロではあったが、試合はイタリアでも生中継された。とはいえ、メキシコとは時差があるから確か夜中の中継だった気がする。イタリアは順当に勝ち上がり、準決勝でベッケンバウアー率いる西ドイツと対戦した。ワールドカップ史上でも名勝負として語り継がれている試合なのだ。 とにかくおさるは家族と一緒にTVにかじりついて応援していた。試合は終了直前に西ドイツが追いつき、1-1で延長戦に突入した。その休憩時間に、なにやら外が騒がしいのでベランダに出てみると(おさるの家はマンションの5階だった)、他の家々のベランダにも人が出ていて、口々に「イタリア頑張れ!」と叫んでいる。中には旗を振っているやつもいる。とにかく寝ているやつなど一人もいません、といった感じで、夜中なのに全ての家の明かりが煌々とついている感じだった。 昔のことなので私の記憶が間違っているかも知れないが、この試合は延長でも決着がつかず、10分ハーフの再延長をしたのではなかったか?試合は互いに一点をもぎ取ると相手もすぐに追いつく、というスリリングなシーソーゲームとなり、結局はイタリアが4-3で劇的勝利を飾り、ブラジルとの決勝に駒を進めたのだった。 決勝進出が決定した瞬間、もう外は叫び声の嵐。あまりの激闘を制したために、もう皆優勝したような騒ぎになっている。ベランダにでて旗を降る者、万歳を叫ぶ者、車のクラクションを鳴らす者・・・驚いたのは、そのうちに皆段々興奮してきたらしく、ベランダから植木鉢やらなにやらをぶん投げ始めたのだ。ガシャーン、ドーンとあちこちで壊れたり割れたりする音が聞こえてきていた。おさるは面白がって観ていたが、いかんせん深夜なので「さあ明日は学校だ」と眠りについた。しかし、なんと翌日学校は休みになってしまったのである! どうしてかというと、前夜みんなが投げまくったガラクタが道路にうず高く積もり、とにかく車も動けなければ人も容易に歩けない。朝おさるたちを迎えにくるはずのスクールバスが道路を走れず、歩いて学校に行くのも歩道が瓦礫で埋もれて困難ということで、急遽休校になってしまったのだ。おさるたちが狂喜乱舞したのはいうまでもない。 ワールドカップ準決勝に勝ったくらいで学校が一日休みになるのだから、こいつは優勝したらとんでもないことになるぞ、とおさるをはじめとする子供達は皆期待に胸を膨らませていたが、決勝では当時現役の神様ペレを擁したブラジルに4-1で完敗。子供達の野望?は儚い夢と消えた。 それにしてももしあの時、イタリアが優勝していたらどんな騒ぎになっていただろうか、とおさるは今でも懐かしく思い出すのです。一週間くらい学校は休みになったのでしょうかね? あれは確かイタリアに渡って2年目の夏休みでした。おさる親子は夏休みを利用してナポリまで旅行をしました。ナポリの説明はここでする必要もありますまい、なにせ「ナポリを見て死ね」という言葉があるくらい美しい街ですので。 そのナポリの近郊に、ローマ帝国時代の遺跡、ポンペイの町があります。ここはすぐ近くのヴェスヴィオ火山の突然の噴火により、住民も一緒に一瞬にして町全体が溶岩に飲み込まれた悲劇の町です。しかし、そのおかげで発掘されるまで町は破壊を免れ、町並みがきれいそっくり再現されている、ナポリ観光の目玉のような場所です。おさる親子は当然のようにここを目指しました。 イタリアの夏は日本同様非常に暑いです。おさる親子はその暑い夏の、これまたお日様が一番高く上って暑い真昼間にポンペイに到着しました。おさる父と母は生まれてはじめて見るポンペイの町並みに興奮を隠せない様子で、どんどん町の中に入っていきます。その頃おさる7歳、妹4歳。 いや、とにかく暑いのなんの!町を走る道路は大きな石がいくつもはめ込んであるのですが、これが太陽の熱を吸収して暑い!しかもでこぼこして子供にはすごく歩きづらく、しばらくすると足の裏が痛くなってくるのです。 町に入って小一時間でおさる妹がむずかり始めました。なにせまだ幼稚園児、ポンペイの廃墟なんか面白いはずがありません。大人にとっては、「ここは昔誰それの宮殿だった、別荘だった、飲食店だった」というのは面白いかもしれませんが、子供にはみ~んな同じに見えます。まあ基本的には壮大な廃墟ですから、何か動くものがあるわけでもないので、小学生くらいまでの子供には殆ど面白くない場所です。 子供にはちっとも面白くない場所ですが、大人は面白いらしく、どんどん先に行ってしまいます。おさると妹はどんどん遅れていきます。ペットボトルなどない時代、水の補給は所々にある水のみ場に頼るしかなく、しかもこれが少ない! じりじり照りつける太陽、さっさと先へ行ってしまう親。足はどんどん痛くなってくるし、おさるはこんな所で迷子になったら一大事と妹の手を引っ張って必死に歩きました。しまいには妹はもう歩けないとベソをかき始めました・・・ それを見た父親が、「おさる、妹をおぶってやりなさい!」とのたまいました。ええっ、こんなに暑いのに妹なんて背中にしょったら倒れてしまう!と拒否しようとしましたが、昭和ヒトケタ世代のコワイ父親の命令には逆らえません。泣く泣く妹を背負いました。 それから一体何時間ポンペイの町をさ迷ったのか、おさるは覚えていません。「雪の八甲田山」では兵隊さんが寒さに倒れていきましたが、「夏のポンペイ」ではあまりの暑さに、おさるが背嚢の替わりに妹をしょって遭難するかと思いました・・・ 結局夕暮れ近くになって、ポンペイの町見学はなんとか無事に終わりました。あの石畳の道路はこれから何百年もそのままでしょうが、大人になった今でも私はちょっと苦手です。これからポンペイ見学をされる方は、ペットボトルと厚底の靴のご用意を忘れずに! ★さらにおさる親子がナポリのピザ屋でしでかした失敗談は「イタリア漫遊記・1」のVol.7でご覧くださいませ。 いよいよワールドカップが近づき、あちこち盛り上がってきましたね~。 以前にも書きましたが、おさるがいた時期はちょうどメキシコ大会が開催され、イタリアは決勝まで進んだものの惜しくもペレのブラジルに屈したのでした。 皆様よ~くご存知の通り、とにかくイタリア人はサッカーが大好き。日本の国技が何故か相撲ということになっていても殆どの国民は相撲をとることはありませんが、イタリア人は男女共にサッカーに熱中します。まさにイタリアの国技といえばサッカーでしょう。 おさるが今でも謎だと思うのは、サッカーにおけるイタリア人気質。 通常イタリア人はなにごとにもルーズでいいかげんでのんびり、というのが通り相場なのに、ことサッカーになると全く逆に変貌するのです。 イタリアチームの伝統的戦術が、よく知られている「カテナーチョ」。ゴールに鍵をかける、という意味で使われていますが、ようするに貝のように固くゴールを守るといこと。守って守って守り抜き、カウンター一発で勝利する、というのがイタリアチーム不変の戦術と言われています。 しかし守るというのは相手に即して動きを決めていくから、実に繊細で周到な計画性と、相手のプレッシャーに耐え抜く忍耐力が必須。日頃陽気でいいかげんなイタリア人が、サッカーになると緻密で忍耐力のある人種に変貌するのは本当に不思議です。 おさるはおさる父に連れられて二回、ローマのスタジオ・オリンピコに試合を見に行きました。イタリアというかヨーロッパのサッカー場に行かれた方はご承知でしょうが、あちらでのサッカーの試合はまさに国と国、都市対都市の「闘い」の場です。 チームは皆その所属する都市の歴史を背負っており、試合になるとその誇りと意地が激突するのです。その激しさは巨人対阪神の比ではありません。もうまさに戦争です。 応援歌を謳っているくらいなら可愛いのですが、発炎筒を焚き、相手チームをののしり、試合中も相手チームの選手がボールを持つとブーイングの嵐。自分のチームが負けようものなら遠慮なく罵詈雑言が降り注ぎます。乱闘も日常茶飯事、いやぁ怖いのなんの。 おさるはゴール裏の芝生席の前の方にいたのですが、そこにいると後ろや上の席の連中が投げるモノ(新聞紙や食い残しや飲料の缶)が振ってきます。 まわりには屈強な男たち(上半身ハダカの人もいました)が目を血走らせ、何に怒っているのかこぶしを突き上げて絶叫しています。まだ小さいおさるは恐ろしくて試合観戦どころではなく、とにかく試合が早く終わることを祈っておりました。なので試合結果は全く覚えていません。多分ローマ対フィオレンティーナだったような気がするのですが・・・ あの生きた心地がしなかったスタジオ・オリンピコを思い出す度に、おさるは日本人の試合観戦マナーの良さに惚れ惚れします。どちらが良いのかは好き好きなのかもしれませんが。 ※未収録だった日記から転載しました※ イラクでの香田さん拉致事件は極端な例として、今国内国外を問わず「危険」を気にせず生活できる場所は無くなってしまった感がある。 生活していくうえで何がしかの危険がいつも存在していて、いつもその危険に怯えて暮らしているような気がする。本当に残念な時代になってしまったものだ。 それに比べ、おさるがイタリアで過ごした少年時代はなんと牧歌的だったのだろう。学校は午前中しかなかったので、家に帰るとすぐさま近くの公園にサッカーをしに行って、夕飯まで帰ってこない。 日が沈み、あたりが真っ暗になっても、母親が迎えにくるまでボールを追いかけている毎日だった。それでも、どんなに辺りが暗くなろうとも、危険な目にあったことは一度もなかった。 サッカーをしない日は、もっぱら家の近所の商店街をほっつき歩いていた。歩いているとやはりおさるが珍しいらしく、色々な人に声をかけられた。全く知らないおばあさんに、「クッキーをあげるからお家においで」と言われてとことこ付いていったこともある。 今の時代では考えられないくらいの無防備さだ。もちろんクッキーとジュースをいただき、お土産までいただいて家に帰り、知らない人の家に行くなとこっぴどく叱られたが・・・ 別の日には、突然街中で中年のおじさんに「日本の切手を持っているか」と尋ねれ、自分の切手コレクションを持ってすぐさま遊びに行ったこともあった。このおじさんには珍しい切手を随分もらった。 とにかくおさるは好奇心が旺盛だったので、「呼ばれたらどこへでもお邪魔する」がモットーだった。今なら間違いなく誘拐されて痛い目にあってしまうだろう。おさるが暮らした30年前のイタリアも、今とは比較にならないほど治安が良かったのだろうと思う。 おさるは気づかなかったが、きっとおさるがいつも歩いていた商店街の人々は、小さなおさるを遠くから見守ってくれていたんだろうと思う。そういう社会全体の暖かみが、あの頃のイタリアには確かにあった。 肉屋、魚屋、床屋、本屋、八百屋、すべて小さなお店の店主達が、いつも店頭や店の中から、おさるに声をかけてくれた。 おさるは、日本に戻ってきてからそうした温もりを感じることは残念ながら無くなってしまった。ローマの街角には、今もあの当時の暖かみがあるのだろうか。 ジャンル別一覧
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